2010-06-02

大野一雄先生、ありがとう。



















サンフランシスコの留学から帰ってきてまもなく、僕は大野一雄氏の舞踏の稽古に通い始めた。

アメリカで演劇を学んでいくなかで、どうしようもない言葉の壁にぶつかっていたものだから、言葉以外の表現方法を模索していた矢先に僕はアメリカで舞踏を知った。

とにかく言葉が通じないって言うのがとんでもないコンプレックスでさ、周りのアメリカ人の俳優志望の学生は当然ペラペラ早口(って本人たちにとっては全然早口ではないんだけど)で会話もするわ、芝居もするわで、俺なんかは台詞何言ってんのかわかんないってとこからだから、くやしいのなんの。だから、ある意味逃げかもしれんが、ことばでない表現方法探してたら、舞踏に出会ったわけです。勿論、ちゃんと発音できないから芝居できません!ってのは悔しいから、大学では芝居もがんがんしたけどね、ネイティブの発音にまでは行けなくても、芝居したかったし、学びたかったし。

ほんでもって、日本帰ってくると逆に日本語で芝居するのが恥ずかしくて恥ずかしくて。I love you はまだしも、愛しています、というのが恥ずかしいみたいな。嘘にもならんし本当にもならんみたいな中途半端なぎこちなさ感じたり。

だからいきなり芝居にはなかなか行けず、そんな中、足を運んでみたのが大野一雄氏の舞踏研究所。23歳の秋でした。大野先生、89歳。

3年通いました。大野先生は何かを教えるとかではなく、自分の想像や空想や妄想や具象や抽象をみんなとわかちあう感じ。こうしたら、ああしたらではなく、ただみんなで踊る。こう言ったら語弊があるかもしれないけど、基本的にはいつも同じことを言ってるんです、お母さん、そして宇宙。産卵するために川を上って行く鮭も、乳を飲ませる母も、子宮のなかの胎児も、全てを包括する宇宙も、そこには隔たりが全くない。いっしょくたん。混沌も統一も。大野先生にとって、宇宙と愛は同義語だったのかもなと今になって思います。


















稽古に通い始めた頃、「わたしのお母さん」という作品で会場整理をしました。舞台上に客席を作ったので、そこに座る観客を案内する役目。当然、僕も舞台上で本番中はその観客席の間から観れるわけです。本番が終わった時には僕の両袖は鼻水でカピカピになってました。誰かが踊るのを見て、涙でぐしゃぐしゃになるというのは初めての体験でした。どうしてかと聞かれても未だによくわからない。終演後は会場整理どころでは当然なく、放心状態。振り返ってみて言葉にしようとするのであれば、体の中味が空っぽになったような感じ。

目で見たものだけを言うのであれば、長髪の89歳のおじいちゃんが体を白塗りにしてお膳と一緒に踊っている、ということ。じゃあ、それを見て感動してしているのはなんなのか? 未だ言語化をあきらめざろうえない感覚、なのかな。これこれしかじかの理由で感動しました、って言えない。愛だよ、魂だよ、肉体だよってことばに凝縮できない。

緑濃い森に行って

夕日が落ちる海岸線を見て

誰かの歌声を聞いて

電車の中でお母ちゃんに抱かれてる赤ちゃんをみて笑ってるサラリーマンの笑う顔を見て

誰も説明できない感動。でも大勢だろうが少人数だろうが普遍的な感動。
何がどう心に触れるんでしょうね。

大野先生の家にお邪魔すると、いつも奥さんのチエさんが春菊と貝柱の天ぷらを作ってくれました。先生の大好物。沢山揚げてくれるので沢山食べました。そのチエさんが亡くなったのが約10年前。先生が全身で踊っていたのもその頃までだったのではないかと記憶しています。

大野一雄。103歳。ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。