日にち変わって6月29日(月)。
2009-06-29
今夜TBSに出演します
今夜9時より放映されるTBS月曜ゴールデン「世直し公務員 ザ・公証人8」に刑事役として出演しています。
毎度ながらのギリギリの告知。
よかったら見てください。
犯人追いかけてます。
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2009-06-27
eatrip
旧友でもある音楽家・青柳拓次と、画家・広河民と、二人の娘、マレンちゃんが出演している映画、eatrip。食の旅。食を旅する。人を良くすると書く、食という行為。
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http://eatrip.jp/
先々週、この映画の監督でもある野村有里さんにも偶然会った。目がキラキラして、声がハキハキした人だった。
「食べる」ことが本気で好きな人、是非観てほしい映画。他には浅野忠信さんやUAも出演してます。とは言いつつ、恵比寿での上演はもう終わってしまい・・・。10月にまた恵比寿でやるそう。
お腹の空く映画です。
青柳たっくんの音楽がホントよかった。サントラ出ないかな?
予告編:
good bye michael
朝起きて目にしたニューヨークの友人からのメール、RIP (Rest in Peace) Michael Jackson、と。
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一瞬頭が混乱する。身内の死を知るのとも、有名人の死をニュースで知るのとも何か違う感覚。10代だった頃、当たり前のようにマイケルはそこにいた。当たり前のように学校の廊下で、ムーンウォークやスリラーの真似をした。あまりにも当たり前にそこにいたので、影響受けました、とか、憧れてました、とかってことばでくくれない。なんだか、変な言い方だけど、実在した人の死の感覚とは違うと言ったらいいのか。
究極のアイコンだったな。歌も踊りも次元を超えてたな、それをマイケルだからと当たり前に見てたな。
いつも失ってから気づくんだな、これが、当たり前のことなんて何もないことを。
彼は言ってたな、
I said you wanna be startin' somethin'
You got to be startin' somethin'
You got to be startin' somethin'
Rest in Peace.
2009-06-26
友人
昨夜、親友・ジャコメッティと飲んだ。
なんつって、メンズ・ブランド、ジャコメッティの永澤氏と飲んだ。
親友なんつってことばを使うのはなかなか恥ずかしいと思っていたし、かっこつけてしまえば、なかなか使えねぇだろってことばなんだが、ようやく親友とはなんぞや?みたいなことがわかってきたので、堂々とそう呼ぼうと思う。
楽観性だけでなく、出来れば見せたくない悲観的な部分を語り合え、一緒に誰かの飲み会に顔つっこみ、馬鹿をしでかし、一番熱く語り出し、創る=生きる、そのもがきや興奮を分かち合える人間。
「悲観は感情に流されているとき。楽観は意志を持ってるとき。」
「どうなるか? ではなく、どうするか」
「あれ、今の社会どうなっちゃってんの? っつうことは、創る仕事って、それとは違う、社会を創れるってことだよね。」
「エコ大事!って本気で謳うなら、ジャンクなものを提示したりとかね。」
「東京の電車って、何でも言ってくれるもんね、傘忘れないように、携帯の電源切るように、席譲るように、次とまる駅名から、乗り換えの時間とかもさ。ぜんぶ言ってくれる。外国じゃぁ言ってくんねぇもんな。だから、それはそれでありがたいんだけど、自分でモノ考えなくなるよね・・・」
とある屋上ビアガーデンにて。
そして、もう一人、俺が親友と呼べる人間。ニューヨークに住むポール, Paul Bargetto。
いつか一緒に作品を創りたいと思っている、大学時代を共に過ごし、二人でサンフランシスコの町をサルに扮して歩いた親友。
彼から今日メールが来て、今年で3年目となる演劇フェスティバルを開催する、と。
「やってる、やってる!」とこころから嬉しく思う。しかもポスターが超かっこいい。
ニューヨーク在住者、俺の代わりに行ってちょうだい!!
そして最後にパリに住む友より:
世界は繋がっているよ!と。
2009-06-20
the wrestler
映画・レスラーを観てきました。
ミッキー・ローク主演。高校に通ってた時分に憧れた俳優。
ランブル・フィッシュ、ナイン・ハーフ、そしてエンジェル・ハート。
エンジェル・ハート観たときは、顎はずれたな。映画館からの帰りに新宿のロッテリア行って、ファンタアップル片手に、一緒に行った友人たちと語り明かしたのを覚えています。
世間も俺も、言っちゃってました、今度の映画は、まるで彼の人生そのもの、この映画で復活!みたいな。
正直、反省してます。確かに世間で言われている、彼の人生に近いものがあるのかもしれないけど、実際には彼の人生を全く知らない訳で、やはり映画そのものを彼の人生になぞってみるのは失敬なわけで。
ミッキー・ロークもマリサ・トメイもスクリーンの中で、めっちゃ生きてました。
彼らがどう生きてきたかは、知る由もありません。
でも、きっと俳優という職業は、その人間の生き様がもろに反映する職業かもしれません。
いや、もしかしたら、どんな職業でもそうなのかもしれませんな。
この映画、必見です。各々の立場で各々なりに共感できるところ、きっとあると思います。
いい映画やいい本って、自分にはわかる、みたいな共感できるところがあるものなのでしょう。
「自分にはわかる。」
一つの作品を通して、そう言ってる人が多いとすれば、「自分にはわかる」が自分だけでなく、共通性のあるものになるわけで、「自分だけじゃないんだ」になって、いくのかも。
2009-06-19
URINE TOWN (和訳*小便横丁?)
という名のミュージカルを見てきた。
しかも元はと言えばいわゆるブロードウェイミュージカル。
なのだが、タイトルは直訳すると、おしっこのまち・・・。
日本でも海外でも、いろいろなものをカテゴリーにはめたがるけど、
芝居の世界で言えば、アングラ、新劇、小劇場、ミュージカル、ふんちゃらかんちゃら
音楽の世界で言えば、オルタネィティブ、パンク、ロック、ハードコア、R&B・・・
一つ一つのカテゴリーのタイトルを見ても聞いても、それどういう意味?というものばかり。
今日見た芝居のうたい文句は、アングラによるミュージカル!
劇団四季ではないミュージカルであり、下北でミュージカルやります!みたいなことか。
何はともあれ、面白かった。
誰でもしがちなカテゴリー決め、ジャンル決め。
本来、それはどうでもいいものなのかもしれない。
どんな芝居をなさっているんですか?
どんな音楽をされてるんですか?
どんな映画を作られているんですか?
中華料理屋行って、トマトソースのパスタが出て来たら確かに驚愕するだろうけど、今日見に行って思ったのは、高円寺に新しく出来た劇場で、アンダーグランドとメジャーをごっちゃまぜにしたミュージカルを見れて良かったな(と、結局、カテゴリーに当てはめて説明してる俺。)
こうしなきゃ、ああしなきゃ、こう見せた方が、ああ見せられたら、が混在してる挑戦的な舞台でした。
ちいさい時から感じていた、みんなで歌を歌う、みんなで踊る、やっぱり、そういう圧巻な感じ、俺好きみたいです、と再確認。
おすすめです。
流山児事務所 ユーリンタウン 6月28日 座・高円寺 にて。
っつうか、座・高円寺。マジいい劇場です。
2009-06-08
ワークショップ 今月は
月1回の演劇?ワークショップ、今月は21日(日)に行います。
ひとのはなしを聞いたり、ひとにじぶんのことを伝えたり、なおさらに演劇を通して学べるだろうことを痛感してる今日この頃、如何お過ごしですか、と。
Eastern Youthの吉野氏曰く、「迷いながら進め」
Cindy Lauper曰く、「あなたの本来持っている色が好き」
太宰治曰く、
「おれか、おれは、そうさな、本当のことを言うために生まれて来た。」
「でも、あなたは何も言いやしないじゃないの。」
「世の中の人は皆、嘘つきだから、話を交わすのが嫌になったのさ。」(お伽草紙より)
いやいや、迷いながらも模索しつつ、言ったり言わなかったりしていきたいっす。
ワークショップ来たれし。
大谷賢治郎 演劇ワークショップ #6
6月21日(日)
場所:TFS幼児教室 自由が丘校 目黒区自由が丘2-19-8
時間:17時〜20時
time after time by tuck and patti
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2009-06-05
2009-06-03
ことば
活字に対する渇望が止まらない。
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脳みそが情報を吸収しまくろうとしているのかな。
小説から、エッセイから、社説から、読み漁っている。
今日電車の中で、スタニスラフスキー(ロシアの俳優・演出家・指導者だった人で、演技についてとことん細かく研究した人)の本を読んでて、更に渇望が湧き出してくる感覚に。
電車の中の周囲が全く自分の視界に入ってこない状態。見えるもの全てが、”もしこれが芝居だったら?”とか、”この人たちの心理状態は?”とかかなりの分析モードに。
ヘッドホンからは友人からもらったヒップホップがいい感じで韻を踏んでる。
音楽。
最近よく考えてるのが、ことば以外のコミュニケーション方法はないのかなと。思考もことば以外ですることはあるかいな、と。
外国語を教えているときのジレンマと、外国語を使っているときの楽な感じと、外国語と日本語とを比較しているときのその違いに対する発見に感動したりと、日々している最中に思い当たった疑問。
ことば以外のコミュニケーション。
演劇もことばを使うがためにことばに囚われてしまう、可能性があるから。
台詞の順番も日本語と英語は真逆。動詞から始める英語と、動詞を最後まで言わない日本語と。
うれしいとアイ・アム・グラッド。
頑張れとぐっど・らっく。
おつかれさまとハード・ワーク。
まったくちがう。それだから面白くて言語や文化の違いに対して興味ありなんだけど。
ことば以外のコミュケーション。文字を使わない表現方法。
それは音楽。
そして今夜知ったこと。
文字を持たない文化がこの地球上にまだあるんだぜ!
アフリカのブルキナファリに生きるモシ族。
文字言葉の代わりに使うもの。
太鼓言葉。
指先の触覚を用いて、微妙な叩き方やリズムによってのコミュニケーション。
目は口ほどにモノを言う、のではなく
指は口以上にモノを言う、のかもしれないな、と。
パソコン操作やピアノ演奏も然り、かな。
自分は、日本には沢山のあいさつことばがあると思ってた。
いってらっしゃい
いただきます
おかえり
おつかれさまでした
それはアメリカに行って感じたこと。
そして、自分はそんな日本が好きになったりした。
いや、今でも好き。色々な感謝やねぎらいのことばを簡素化もしくは記号化してる感じが。
ほんでもって今日知ったこと。
そのモシ族には
こんにちは
さようなら
ありがとう
がないんだって。
つまりこんにちはというあいさつ一つとっても、状況や関係性やその他諸々によって意味合いが変わってくるから、ひとことで言うのではなく、めっちゃ細かい言い方をするとのこと。
奥の深い文化であると同時に
細分化 と 簡素化 の両方のコミュニケーションの魅力に気づいちまった、なんつって。
演劇ではことばの裏にある意味を探求したりする。創るという作業を通して。
ことばを使わない演劇の可能性にも妄想を膨らませてみようと思いました。
ぎゃー!とか うぉぉ!とか ふんぎゃー? だけの演劇?
*ちなみに写真に写ってるのは誰でしょう?ことばとことば以外の表現を一生追求してた人なのかもな。
2009-06-01
モノの見方 perspective
ブログって、何かを報告しなきゃとか、自分はこんなことしましたとか、しますとかの宣伝になりがちになってしまうことにどことなくジレンマを感じてました。勿論、そういうのもあり。先日も越生にある知人のダーチャ(ロシア語で別荘)と称される家に招かれ、チェーホフの芝居に出てきそうな空間と時間を過ごして来たのだけれど、あっ、行ったからブログに書かなきゃってのがピンと来ないというか、書くという行為に対して自分が純粋でないと言ったらいいのか。ま、考え過ぎと言ったらそれまでですが・・・。
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have to とか should が先走り、want to になってないな、という自覚。しかもそういうときって、周りに対して、should とかの注文が多くなる。こうすべき、ああすべき、と。見方を変えれば全く違う風に、もっと言えば前向きに見えること、もしくは全然気にならないことなのに、自分の状態がずれると、もっとこうしろ、ああしろと周りに要求し始める。
つまり・・・例としては、自分が本に夢中になってるときは電車の中で、人がぶつかってこようが、前に立ちはだかっていようが、何とも思わないし、気にもならないのに、自分が集中する対象がなく、行く先だけに急いでいる時、なんで急に止まるんだよ、俺の前で!とか、どこ見て歩いてんだよ、とか、もっと早くしろよとか、自分主体の相手への要求に走りがち。そのときは自分にとっての危険信号!とすぐに切り替えようとするのだけれど。
電車の中、自分の舌打ちの音に気づき、そんなことを感じました。
今日会ったトルコからの友人も言ってたな、散々移民局での大変な思いやしんどさや、移民局の不手際について早口で話したあとに、「結局自分が悪いんだけどな・・・」って。
何事も見方次第。
英語ではそれをパースペクティブ perspective という。
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