2009-06-01

モノの見方 perspective














ブログって、何かを報告しなきゃとか、自分はこんなことしましたとか、しますとかの宣伝になりがちになってしまうことにどことなくジレンマを感じてました。勿論、そういうのもあり。先日も越生にある知人のダーチャ(ロシア語で別荘)と称される家に招かれ、チェーホフの芝居に出てきそうな空間と時間を過ごして来たのだけれど、あっ、行ったからブログに書かなきゃってのがピンと来ないというか、書くという行為に対して自分が純粋でないと言ったらいいのか。ま、考え過ぎと言ったらそれまでですが・・・。

have to とか should が先走り、want to になってないな、という自覚。しかもそういうときって、周りに対して、should とかの注文が多くなる。こうすべき、ああすべき、と。見方を変えれば全く違う風に、もっと言えば前向きに見えること、もしくは全然気にならないことなのに、自分の状態がずれると、もっとこうしろ、ああしろと周りに要求し始める。
つまり・・・例としては、自分が本に夢中になってるときは電車の中で、人がぶつかってこようが、前に立ちはだかっていようが、何とも思わないし、気にもならないのに、自分が集中する対象がなく、行く先だけに急いでいる時、なんで急に止まるんだよ、俺の前で!とか、どこ見て歩いてんだよ、とか、もっと早くしろよとか、自分主体の相手への要求に走りがち。そのときは自分にとっての危険信号!とすぐに切り替えようとするのだけれど。

電車の中、自分の舌打ちの音に気づき、そんなことを感じました。

今日会ったトルコからの友人も言ってたな、散々移民局での大変な思いやしんどさや、移民局の不手際について早口で話したあとに、「結局自分が悪いんだけどな・・・」って。

何事も見方次第。

英語ではそれをパースペクティブ perspective という。

1 件のコメント:

ァィァィ さんのコメント...

この感覚とてもよくわかる気がする。
とても。