2011-08-13

ユニコーンの角 プロジェクト

これまでは色々な人の協力を得て単独で絵本や子供服を福島県相馬市に届け、保育園等で読み聞かせをやらせて頂いておりましたが、先月から動き出した人形劇の仲間もいますし、一緒に動こう!という仲間の声もあり、そして何よりもこういった活動を継続的にできるよう、まだ手探りではありますがプロジェクトを立ち上げました。


その名を「ユニコーンの角 プロジェクト」


この活動を始めるきっかけになった相馬中村神社は野馬追い発祥の地。だから何か馬にちなんだ名前がいいねということと、この活動が子供たちの想像力を支援することを目的にしているということで何か空想上の動物はいないかなということからユニコーンに。そしてウィキペディアで調べた友人がユニコーンの角には毒で汚された水を清める力があるという伝説を興奮して連絡してきたので、まさにぴったりであろう!とこの名前にしました。

このプロジェクトの究極の目的は被災地の子供たちに笑ってもらうこと。
想像力をフルに使ってもらうこと。

被災しても子供たちはたくましく生きてます。
世界中の子供たちはたくましく生きてます。

まだこの時点では夢みたいな話だけど、このユニコーンが福島発信で、世界中の子供たちの架け橋になればなって絵を頭の中で描いています。このユニコーンが世界中を飛び回って、いろんな国の子供たちがユニコーンの絵を描いたり、物語を作ったり、メッセージを交換したり出来たらというのが、おいらの夢。世界中の子供たちが描いたユニコーンが一つの絵本になったり、物語になったりっていうのが、おいらの夢。

そんな夢に向かっての第一弾として、7月末に相馬保育園に行ってきました。
今回は沖縄の在住のPokkeさんというアーティストを引き連れて。

Pokkeさんの詳細はこちら!すばらしいアーティストです:

彼女は普段からも子供たちと絵を一緒に描いたりってワークショップをしているアーティスト。第一弾として、そんな彼女に保育園の子供たちと一緒にユニコーンの友達を貼り絵にして、みんなで大きな一枚の絵を描こうぜ!というワークショップを今回は企てました。

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東京を夜中に出発。



まずは那須まで夜の間に移動しようと。

今回も沢山の子供服や絵本を集めてくださったTFS幼児教室が毎年サマーキャンプを行っている山荘に泊めさせてもらうことに。



一緒に写っているのはPokkeさんと今回同行したいと一緒に来てくれたパリから一時帰国中の中学生、丞治。

到着したのは4時過ぎでした。


丞治もアドレナリンに覚醒されたのか、早朝から絵を描き始める。





少し仮眠をとって朝を迎える。
すがすがしい。



こんな山道を抜けて山荘をあとにする。



そして、相馬中村神社に到着。



精気みなぎった大木と猫が迎えいれてくれる。




Pokkeちゃん、早速、境内にて準備にとりかかる。


ユニコーンの下絵も。




そして翌日。
相馬保育園に。



まずは読み聞かせ。こどもたちが嬉しそうに待ってくれているのがたまらない。





僕も再会についつい調子に乗る。





読み聞かせを終え、ついにPokkeちゃんと子供たちで1枚の絵を作ろうという時間に。
Pokkeちゃんが描いたユニコーンを真ん中にいっぱいお友達を作ろうと子供たちが各々好きな絵を書いて貼り絵をしていく作業に。
みんなキラキラしてる。



ユニコーンのまわりに直接描くこどもたち。



ひとりひとり創作に夢中。








子供たちの絵が徐々にユニコーンを囲んでいく。







実際にユニコーンを描いている子も。かっこいい。



想像力集団。



そして、ついに完成したのがこれだ、1、2、3。





そして子供たちとクラスごとに記念撮影。


みんなとハイファイブ!



そして最後の記念撮影は何度も何度も繰り返された。帰れなくなる、帰りたくなくなる瞬間。



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誰かが言ってました、子供たちの未来が・・・ってうちら大人は言うけど、子供たちの今でしょう、と。
だよな、って思います。

遅ればせながらブログ更新。






2011-08-12

8月9日を経て


遅ればせながら、8月9日について。

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1945年9月、米空爆調査団のカメラマン、ジョー・オダネル軍曹が撮った原爆投下の1ヶ月後の写真。

以下は、彼の回想インタビューからの引用です。

「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺め
ていました。すると白いマスクをかけた男達が目に入りまし
た。男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をし
ていました。荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の
中に次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。お
んぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は
当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の
様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼
き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも
裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目
を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠
っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひも
を解き始めました。この時私は、背中の幼子が既に死んで
いる事に初めて気付いたのです。男達は幼子の手と足を持
つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえま
した。

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な
夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を
赤く照らしました。その時です、炎を食い入るように見つめる
少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。少年が
あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、
ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が
静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を
去っていきました」


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2011-08-07

8月6日におもう

広島に原爆が落ちて66年が経った。


日本ではこの時期になると戦争の悲惨さや恐ろしさについてテレビなどで語られる。
その度に「この悲惨さを忘れてはならない。同じ過ちを二度と起こしてはならない」と語られる。引き裂かれた家族の話、被曝して全身にガラスが突き刺さり9ヶ月間布団に寝れなかった少女の話、大切な人を失った話、未だに原爆症で苦しむ人々の話。。。

小学校の頃から平和学習を受けてきて、小学校6年のときには学習旅行で広島に行き、被爆者から話を聞いたりしてきた僕は、この悲惨さを忘れてはならないと思いながら、忘れてきた。忘れてた。その忘却が集大成となり、今の現実があるのだと思う。

毎年毎年この時期に同じコトバが繰り返され、その度に思い出され、”この悲惨さ”を耳にするのに、”この悲惨さ”は未だ繰り返され、対岸の火事のごとく世界の至る所で起きているその”悲惨さ”が日常茶飯事の渦に埋もれて行く。

同じ過ちを繰り返してはならない。と僕も思う。でも同じ過ちが繰り返されるのは、”同じ過ちを繰り返してはならない"が未だ本気なものになってないのからかもしれない。
同じ過ちを繰り返してしまう社会に便乗してたからかもしれない。

自分が今享受しているもの、それは同じ過ちが起こりえるものの上に立つ恩恵なのか。

原爆も原発による事故も惨い。忘却や無知によるその恩恵が当事者の自分にのしかかる。

実体験をしていない自分は想像力をフルに駆使するしかないな。
前向きに悩む。