2008-02-21

普遍性と創造と想像とアウシュビッツ




1945年5月、ナチス・ドイツは滅びた。


いま・・・
アウシュヴィッツには親をさがす子どもたちの泣き声も、子をさがしてドイツ兵とどなりあう親の声もない。収容所のあとはそのまま残され、博物館になっている。ドイツは、ナチスのしたことを人道に対する犯罪だったと認めて、いまでもつぐないをつづけている。
でも、アウシュビッツはほんとうに終わったのだろうか?
ヒトラーは死んだ。ナチス・ドイツも滅びた。でもヒトラーを尊敬する人はいまでもいる。かれらは「ネオ・ナチ」とよばれ、その数はふえつづけている。

なぜだろう・・・
いま、私たちの心の中に、「優秀な人間」と「だめな人間」とを分けようとする考えがないだろうか?
みんなと同じことをできない人を「だめなやつ」だと決めてしまうことはないだろうか?
みんなとちがう意見をいう人を「じゃまなやつ」だといって、仲間はずれにすることはないだろうか?強いものにきらわれたくなくて、いけないことがわかっているのに、やってしまうことはないだろうか?
自分さえ得すれば、「他の人なんかどうでもいい」と、思うことはないだろうか?
あの時のように・・・

アウシュヴィッツは、狂った人びとが、まちがえて作ったものではなかった。ドイツ人がどうかしていたのでもなかった。
ただ、自分が困った時に、もっと困っている人びとを思いやれなかった。自分さえ安全なら、ほかの人がすこしくらい苦しんでも、すこしくらい死んでもしかたがないと思っていた。
自分が優秀で正しいと思うあまり、自分がほんとうはなにをしているのか、分からなくなっていた。
もしかしたら、アウシュヴィッツで罪をおかした人びととは、みんなどこにでもいる、ふつうの人たちだったのではないだろうか?
私たちと同じように・・・

アウシュヴィッツはほんとうに終わったのだろうか?
ガス室は、ほんとうに消えたのだろうか?
120センチの棒は、もうないだろうか?
私たちの心の中に、アウシュヴィッツは、ほんとうに
ないのだろうか?

―「アウシュヴィッツの子どもたち」青木進々・著 より



・・・・・・・・・今日、福島、白河にある、アウシュビッツ博物館に足を運んだ。芝居を作るプロジェクトの仕事で。山奥にある、古民家。まわりは畑しかないところにポツンとある、アウシュビッツ平和博物館。

運営のすべてがボランティア。ヨーロッパからかなり遠くに住む日本人が営んでいる博物館。

120センチの鉄棒をみた。子どもかどうかを判断する鉄棒。こどもたちは必死の背伸びする鉄棒。鉄棒に頭が触れなければ殺されるのだから。

どこの国がとか、誰が、とかはどうでもいい。
誰が、どんな仕事についているのか、はどうでもいい。
人種も、どうでもいい、と言える世の中になったらな、って自分なりに模索中です。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

"You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one"

Imagine, us Pisces!